砂丘と桑田佳祐  そして砂丘のマスターの話

「大学の近くに砂丘という喫茶店がありました。 地味な喫茶店でしたが、桑田のインタビューにも名前が出る店です。マスターは大坪飛車角という元プロレスラー。でも、引退されていて、将棋好きの(年の離れた)良い先輩でした。 もう30年以上も前、海水浴でおぼれた子供を助けに行って、亡くなられたと聞いています。マスターらしいなくなり方、というのは良くないかもしれませんが、そう思いました‥‥」

工芸班OBからサザンオールスターズの桑田佳祐と喫茶店「砂丘」についての投稿がありました。

砂丘のマスターが湯河原近くの吉浜海岸で亡くなられてもう30年以上がたちます。

桑田佳祐と砂丘の関係につてご存知ないかたもいらっしゃるかと思います。下記投稿をお読みください。

 

<砂丘と桑田佳祐>

青学近くの「砂丘」は、みんなのたまり場でした。その砂丘の名前が、ネットをぐぐると、桑田佳祐の「栄光の男」の曲についてのラジオのコメントに出てきます。

「長嶋さんが引退する所を私、1974年の10月にね、あのー青山学院のすぐ近くのね、あのー僕大学1年だったんだけど、青学の、砂丘っていう喫茶店があって、そこで見てたんですよ。したらなんかもう、予定と違って人生、あの大学1年に入った時、モテるとおもってたらモテなくてさぁ、んでもうちょっとフテくさってたら、長嶋さんのそのセレモニーがあったわけ引退の、1974年。もう40年前か、んで、なんかハラハラ涙でてきちゃってさぁ、なんかこうたまってるものっていうのかなんか、まぁいろんな意味で、そんなことあった。」

http://dandymanpy.com/archives/date/2013/07 (リンク先7月20日の記事)

また、彼のサークルが、楽器を砂丘に置いていたことがツイッターにありました。

そういった状況があって、「砂丘で、テレビを見て泣いていた桑田佳祐」が理解できました。

 

経営学部では、彼が自分の教室にいたのを知らなかった基礎ゼミの教授(物故)や、90歳になられた英会話の英国人教授が居られます。マスター大坪飛車角さんも、桑田の今をご存知なら、喜ばれているか、片腕をソファの背もたれにのせて「あいつは、よー」かもしれませんね。

 

 

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コメント: 2
  • #1

    飯田 貞年 (月曜日, 12 9月 2016 08:45)

    「砂丘」は第2の部室でした。部会終了後は必ず多くの部員が集まっていたのは当然、
    授業の合間に行っても誰かしらが居たものです。角刈りで見るからにマッチョで厳つい
    マスター。喫茶店のイメージとは程遠いもので、そのギャップが安心感を醸し出していました。体育会系趣旨員の自分にはそのように思えました。マスターの甥っ子さん、娘さんが店を手伝い全く気遣い不要の店でしたが、初めてのお客さんはかなり戸惑ったことでしょう。我々の仲間は「ナポリタン」は、厨房に入り自分で作っていました。腹が減っていれば勝手に大盛りに。当然ながら普通料金は支払ってましたので
    ご安心を。大学四年の時、家の商売が倒産しました。私の様子がいつもと違っていたのでしょうか?マスターが声を掛けてくれました。このまま通学を続けていいものか等の事情を話すと、「飯田君ならお金を要だてるから、いつでも相談しろよ」と言ってくれました。また、就職試験を受けた時は「どうだった?」と。そして「飯田君を落とすような会社なら、先行きしれているよ。大丈夫だよ!」と励ましてくれたこと、今でも忘れません。就職して数年後、訃報に驚き葬儀に参列したら同期の宮本が大阪から来ていました。恵美ちゃん(現平岩夫人)も来てくれました。とても悲しかったけど、一寸嬉しくもあった。マスター、昨年先輩方の尽力で50周年行事を実施できました。そしてOB会も再スタートして今年は同窓祭に参加すべく多くのOBが力を合わせ新たな第一歩を踏み出そうとしています。どうぞ、お見守り下さい。宮ちゃんもね。

  • #2

    大関ジュン (木曜日, 20 8月 2020 23:41)

    砂丘といって思い出すのは古美研と野球部の溜まり場、概して野球部の方々はおとなしく、飯田さん世代とその下の世代に元気な古美研の方が多く今考えるとすごいことになっていましたね
    そこに野球部の金沢さんは覚えているけれど桑田さんまできていたとは全く知りませんでした
    マスターとは今ブームがきている将棋を私が少しできたのでよく対局させてもらいました
    最初はそれこそ[飛車角]抜きでボロ負けでしたが、対応を覚えていき香落ちまで進化しましたが平手でやった記憶がありません
    駒落ちではほとんど私が勝つようになり、太くてがっしりした腕でこのやろう!とやさしくヘッドロックを何度もされたのは愛情表現かな?
    やさしく包容力のある大人を初めてみた感じでした
    親父というより歳の離れた兄貴という感じでしたね
    将棋ではその代わりというか先輩の宮本さんが私と同じレベルなので良くやりました
    毎週決まった曜日、砂丘待ち合わせが定番になり、暇なときは砂丘に電話して宮本さんがいたら急いで行き良く対局しました
    私が勝つと、この野郎もう一丁と結構長くやって、そのあと飲みに行くのではなく食事、特に美味しいトンカツをご馳走になり嬉しかった記憶が鮮烈です
    30年以上連絡のなかった同期の山崎さんから連絡があり、定期会の誘いと宮本さんがまさかの鬼籍に入られたことを聞き すごくショックを受けました
    いつの時期からか砂丘では通称しょうちゃん一人のことが多くなり、客もほとんどいないので良く二人で将棋をしていました
    そのうち前を通ったら看板もなくなり、これが時代かなと思っていたらマスターの事故死の話を誰かから聞いて、当時の不義理を本当に残念に思いました
    一時代の青学学生が行く喫茶店の金字塔ですね 良い思い出の穴蔵のような喫茶店でした 合掌