伊藤幸和さんの手記「悔いのない生き方を・・」

甃会会員の伊藤幸和さん(1977年卒建築班)は経営する画廊関係の仲間とともに、東日本大震災で壊滅した陸前高田の松原を再生する支援を続けていらっしゃいます。震災10年にあたり、同氏が青山学院校友会の経済学部同窓会に寄稿された手記を当ホームページにも紹介させていただきます。

「悔いのない生き方を、、」

伊藤幸和

東日本大震災から10年が経ちました。

2011年3月11日は午後から美術商組合の市場が開催されている銀座東武ホテルにおりました。南信州出身の私は地震の経験があまりなく、18才で上京した時に東京で群発地震があり、それがせいぜい震度4だった記憶があります。

午後2時46分突然東武ホテルの堅牢な建物が不気味な音を立てて揺れだし、それが結構長い間続きました。私は部屋の柱と壁のそばに避難し、一瞬これで人生終わりかなと思い青ざめておりました。揺れがおさまると市場が再開され、私は自分の仲間ながらなんて強い人達だと驚きました。市場が終わり、駐車場へ行くとエレベーターが故障して車が出せませんでした。仕方がないので同じ方向の人と一緒に帰ろうと思い外に出たら、昭和通りは避難する人達で一杯でした。京橋まで来ると近所の「ぬ利彦ビル」の窓ガラスが殆ど割れていました。画廊に戻ると近所の方が私の入っているビルが振り子のように揺れていたと教えてくれました。ところが、画廊に掛けてあった絵は全部無事で被害はゼロでした。早々に画廊を閉めて社員には帰ってもらいましたが、私の住まいは横浜で片道60kmあり徒歩での帰宅を諦めました。家族、自宅も心配でしたが、連絡がつかないので諦めざるを得ませんでした。結局、その晩はエアーキャップに包まり一夜を過ごしました。翌日ホテルの駐車場から車を出し自宅へ帰りました。途中、湾岸線の川崎あたりの道路が波打ち変形しておりました。何故か自宅は全く被害が無く仏壇の花さえ倒れませんでした。家族も被害が全くなく一安心しました。ニュース映像で東北の様子が流され、目を覆うばかりの惨状でした。

 

2ヵ月近く経った時、画商仲間と4人で東北を見て来ようと気仙沼まで出かけました。内陸部は以外と被害がないようでしたが、気仙沼に近づくと景色は一変しました。海岸近くの街が殆ど消滅しておりました。ただ、1m位の差で津波の被害から免れた住宅も結構ありました。チャーターしたタクシーの時間が余っていたのでもう少し先まで行ってみようと陸前高田まで足を伸ばしました。陸前高田は想像を絶する光景でした。大きな街が道の駅、センチュリーホテル、スーパーを残してすっかり消失しておりました。残った道の駅などの建物も殆ど廃墟になっておりました。映像では観ておりましたが、現場を見てあらためて大震災の凄さに打ちのめさせられました。仲間の一人が線香に火を付け4人でお祈りをしました。帰ろうとした時、近所で残骸の片付けをしていた若い自衛隊の方々が元気な声で挨拶をしてくださり少し心が落ち着きました。

 

東京に戻ってから、私に何かできることはないかと考えました。零細の画廊主にできることは知れております。陸前高田には市民の憩いの場となっていた7万本もの松原があったことを知りました。その中で「高田松原を守る会」の存在を知り、何とか支援ができないものかと考えました。一画廊の力ではできませんが、幸いにして私は10年前より会員150名を集めて美術品市場を開催しておりました。そこで会員さんを巻き込んで年に2回高田松原再生支援大会を企画し実行しました。結果は大成功、その年の秋には222万円の寄付をすることができ、「馬鹿の一念何とやら」で以来9年、年2回高田松原再生支援を続けております。高田松原の松苗も大分大きくなりましたが、昔あった松原になるには50年はかかります。途中で「伊藤さんもういいんじゃないの?」の声もありました。しかし、この支援は続けなくては全く意味がありません。

 

私も既に高齢者、守る会の役員さんも高齢者でこの体制ではあと何年維持できるかという問題もあります。何とか次の世代の方々に繋げて行きたいと考えております。4月には第19回高田松原再生支援大会を企画しております。私は一人よがりな人間だと思いますが、他人に喜んでいただける仕事ができるようになった今を誇りにしております。

👇高田松原を守る会フェイスブック(2014年12月4日)より